刀ステ維伝・雑感

明けましておめでとうございます。

と、いまさら新年のご挨拶なのですが、いきなりの通常運転に戻します。

 

さて、年末年始もぶっ通しで上演されている刀ステ維伝についてちょろっと。

 

いつからかはわかりませんが、(おそらく地方公演からだとはおもいます)連日スタンディングオベーションとのこと。すばらしい作品に対して、こうやってシンプルに拍手を送れるのは本当に素敵な事だと思います。「千秋楽だけにしろ」的なスタオベポリスも発生してるようですが、いいものにいいと惜しみなく拍手を送れる方が素敵じゃありませんか?

 

2回目を見てもまだ「いや~~~~~~~かっこいいすばらしい!こんな刀剣乱舞をありがとう!」っていうのがいちばん最初に来てしまって、なかなか考察までたどり着けていません。それでもいろいろ気になったので、ちょっとメモ代わりに自分の考えをまとめておきます。

 

【バレあるよ!】

 

維伝のここがすごい!ってところあげていくときりがないんですが、そのなかでもやっぱり「坂本龍馬」と「岡田以蔵」の魅力によるところって大きいと思うんです。そもそもほとんどの人が履修済みの人物ですしね。

 

この2人(というか、武市半平太吉田東洋もですけど)、正確には「坂本龍馬のような存在」であり、「岡田以蔵のような存在」であって、本人ではありません。でも、アタシたちがイメージする「坂本龍馬」であり「岡田以蔵」でありそのイメージのままだったということが、キーだったりするような気がして。

 

アタシたちは当然ながら、彼らがどんな人物だったかなんて歴史の教科書や創作物でしか知る術がありません。時代が近く、たとえ写真が残っていようとも、彼らのことは「物語」としてしか認識できないんです。

 

つまり彼らはアタシたちが望む姿の「坂本龍馬」であり「岡田以蔵」で、「物語の中の存在」でしかないから、彼らはその時代に生きた本人ではなく、残された思いから生まれた「朧の存在」ではあるけれども、それを偽物だと言い切るのも違うのではないか、っていうことなんですよね。なんかややこしくなってきたので、感覚的に捉えていただけるとよいかな、と。



「物語」っていうのがここ最近の刀ステ、刀ミュのキーワードになってきていると思うんです。刀剣男士は実体よりも物語によるものが実は大きいのかな、なんて気もしています。

 

そんな中で「物語」を欲する時間遡行軍がいましたね。打ち刀でしたね。どこかでみたことがある太刀筋でむっちゃんたちを助け、導いてくれた時間遡行軍。笠をあげると……ああああああああああああ!

まんばちゃん⁉ あなた、まんばちゃんっていうの⁉ どういう技術かわかりませんが、どっから見ても本人でしたね。めちゃくちゃ良席で観劇したときでさえ、本人かと思ったくらいなので。なんだろアレ。デスマスクかな……いやそんなことより、キミはどこの本丸のまんばちゃんなんだ! 所属を言え! ステ本丸の子なの? それとも別本丸?

 

三日月さんの話もでてきたので、今回出陣した5振りはこれまでと同じ本丸だと推測されます。でも、どこかの本丸の6振り(含むまんばちゃん)は、あの改変された文久土佐藩で折れているんですよね。折れた彼らがどうなったのか描かれていなかったので、折れたところのまんばちゃんかもしれないし、もしかしたらいままでの本丸のまんばちゃんかもしれなくて、その辺ずっとモヤっとしています。悲伝のあと「三日月を救いたいという想い」だけで朧な存在になったのか。欲する「物語」を手に入れると朧な存在は実体を手に入れることができるのか――。

 

「物語」が彼らを作り出していると仮定するならば、その可能性だってあるわけで。現状、あの本丸の近侍を務めているのは長谷部だっていっていましたね……やめろぉぉぉぉぉぉ!末満さんてめぇ(今回のステめちゃんこいいですね)

 

刀剣男士が人の想いに呼応して顕現するならば、それ以外の存在も人の想いによって生まれる。物語が彼らを形作る。では、物語とは――この辺についてはこれからのステで言及されるのかなって気がします。

そして繰り返し言われていた「刀の本能」についても気になるところ。売って!はやく戯曲売って!文字でも読ませて!頭がアレだからす~~~って抜けていっちゃうんだよう!

 


とまぁ、ここまで綴っておいてなんですが、維伝のいちばんの魅力はお芝居の美しさだったりします。考察はあとからいくらでもできるので、観劇中は目の前で起きているエンタメに身をゆだねてください。そして、濃密なお芝居を連日魅せてくれるキャストたちには惜しみない拍手を。公演は残すところあとわずかとなりましたが、最後まで怪我無く駆け抜けてください。

 

ぅぅぅぅもっかい見たい……(維伝ゾンビ)