「歌合 乱舞狂乱」を振り返って

さて、歌合全体の感想です。っていってももう考察も鬼のように出てるんですけどね。

人の考察が自分の感想にすり替わってしまうのももったいないので、アタシもこの作品で感じた思いを書き留めておこうと思います。

 

「歌合 乱舞狂乱」は、ミュージカル『刀剣乱舞』としての神事でした。

そう、詠まれた歌、演じられた物語、そしてライブ……すべてが、刀から新刀剣男士を励起させるための「神降し」の儀式だったんですよね。

 

まずは、「えおえおあ極」なんて呼ばれたこちらの動画。


ミュージカル『刀剣乱舞』 歌合 乱舞狂乱 2019

 

最初は歌と歌詞のみの動画だったのですが、聞いたことのない音の並びに「これは何か隠されているに違いない!」と思った審神者たちは一斉に解読を始め、ものの数分で答えを割り出しました(リアルタイムで追ってたけど、楽しかったなーあの感じ)。

なんとそこには、イサク、イワサクといった、刀で斬り殺された神様の血から生まれた、「八柱」の神様の名前が入っていたんです。

劇中では六首の歌と、異なる書き手による物語が六つ捧げられました。物語は歌という形で炎の種になり、六つの篝火が灯されます。歌が添えられていない物語が二つあり、演目は合計「八つ」。篝火も、鶴丸がオープニングとクライマックスで一つずつ灯したので合計「八つ」になります。

 

興味深いのは、「君待ちの唄」で歌われた、肉体を得る過程(そして同時に歌われていた刀を作る工程)も「八つ」なんですよね。そして、顕現した刀剣男士は「八つの炎」(前述の篝火)に呼ばれ、肉体と「八つの苦悩」が与えられたと歌うんです。八つの苦悩は、仏教でいうところの「八苦」ですね。

 

そんな感じで、今回は様々なところに「八」がちりばめられていました。おそらく八柱の神様から来ているんだと推測します。でも八苦に関してはもともとあった仏教の思想ですし、「八」っていう数字が何を意味するかってなると論文クラスのモノになるだろうから、ふわっと「八」がキーだったんだな、位でいいと思っています。

 

さて、ここであらためてなのですが、歌合で生み出そうとしている刀剣男士とはいったいどういう存在なのか、というお話。もちろん、刀の付喪神ではあるんですけれども、ときに刀剣男士としてではなく、別の形で顕現する場合もあるんですよね。あ、これはミュ本丸ワールドの話です。つまり、葵咲本紀でいうところの先輩のような形になってしまうこともおおいにあり得る。

だから、神降ろしの段階ではまだ、ぼんやりと「神のようなもの」ではあるんですけど、「刀剣男士」ではないんですよね。

 

彼は「五陰盛苦」について歌っていたのですが、五陰盛苦とは、心身が働くからこその苦しみを指します。つまり、刀剣男士として肉体を得ることは、知らなくてもよかった苦しみをも同時に得るということなんですよね(仏教なのか神道なのかっていうツッコミもあるかと思いますが、そもそも日本の宗教観っていうのがわりかしカオス)。

 

なぜ自分を生み出したのか男士たちに問いかけると、男士たちは共に戦い使命を果たすために力を貸して欲しいと懇願。彼は、最終的にその思いに応える形で「刀剣男士」として顕現するんです。生まれたわけを問い続けながらも。

 

なんてものを背負わせてしまっているのだろうと、歌を聴いたときに胸が苦しくなりました。それでも彼は、そしてこれまでに顕現した子たちは、苦しみを受け入れて刀剣男士になることを選んでくれた。そうじゃない可能性があったにもかかわらず、アタシたちの思いに応えてくれたのだ。

桜の花びらが舞う中から現れた桑名江、そして松井江はひたすらに無垢で美しかったです。あなめでたや……。

 

真剣乱舞祭という形を捨て新たな試みとして行われた「歌合 乱舞狂乱」は、ミュージカル刀剣乱舞が次の章に突入したんだなということを感じさせるイベントでした。この本丸にいる子たち、そして新しく顕現した子と一緒に、これからも物語を紡いでいけたらな、と思っています。

 

 

要約すると……新作チケットご用意されたいよ~~~~~~!