「彼岸」と「此岸」が交わる場所で ー『真剣乱舞祭2022』ふわっと考察ー

”あの祭り”が帰ってくる!!!!!!!!!!!!!!

 

ミュージカル『刀剣乱舞』が6周年を迎えた日、新作公演のお知らせとともに舞い込んだのが『真剣乱舞祭2022』の開催の一報。それと同時に、ファンの間で”名作”との呼び声が高い「真剣乱舞祭2018」がトレンド入りしました。制作陣も「(2018で)祭りの形が完成された」とし「真剣乱舞祭」は以降封印されていたので、実に4年ぶりの開催です。新規グッズのペンライトが2018に登場したこんのすけのねぶた型(めちゃかわー!)ってこともあり、”あの祭り”を継承しているのかな、となんとなく思っていました。

そして蓋を開けたら、なんと”あの祭り”のセルフオマージュだったんです!

 

基本的な構成はこれまでの乱舞祭と同じく、ストーリーテラー的な刀剣男士がいて、その人物を中心にテーマが打ち出され、それに沿って物語が進んでいく。今回のお当番は水心子くん。刀ミュにおいて”祭”は「夢と現」「彼岸と此岸」が交わる場所と位置付けられていて、2016では夢現の中で清光を取り合い、2017は彼岸と此岸の狭間で百物語が繰り広げられ、2018は彼岸と此岸それぞれの祈りが描かれました。

さて、セルフオマージュとはいえ、テーマは刷新されます。これについては考察するまでもないと言うか、「神送り」と歌っているのでズバリそれだろうね。とはいえ、ここで言われているのは、出雲大社のものではなく、どちらかというと「葬送」に近いのかな。彼岸と此岸が交わる“祭り”の中で、楽しみ、遊び、そして此岸から彼岸へと送り出す儀式。となると、さしずめ花道は三途の川、舟は彼岸へ送る渡し舟ってとこかな。そんな「死の象徴」みたいな渡し舟からひょっこり顔を出したのが、持ち主とともに埋葬されたのち墓暴きにあった鶴丸っていうのが、なんとも絶妙だよね。

彼岸に送り出されるのは、『東京心覚』に出てきた「山吹の君」(便宜上ここではそう呼びます)と、「将門公」。山吹の君に関してはいろいろな解釈ができると思うけれども、アタシは、具体的な誰かを指しているのではなく、歴史には名を残さなかった数多の人々の象徴だと考えています。そして、その真逆に位置する、誰もがその名を知る将門公。日本三大怨霊とまで言われていて『東京心覚』では怨霊化した将門公を封印するシーンも描かれました。でも、あれって、結局力ずくでの封印だったんだよね。怨霊になってしまった後だから、仕方ないっていえば仕方ないんだけど。だからこそ、今回、ちゃんとその魂を彼岸に送ろうとしているのかな、なんて思いました。そう、この祭りは数多の命の「葬送」であり、将門公の「鎮魂」でもあるんだよね。

前途のとおり、祭りパートは2018年のセルフオマージュとでも言うべきラインナップ。日本各地の祭りをモチーフにしたメドレーが続くけど、今回は男士たちが東西に別れることなく、初めから入り乱れている。そして、北海道の「雪まつり」がなくなって沖縄の「エイサー」がイン。沖縄復帰50周年ってのもフワッと関係してるかもしれないけれども(そして琉球刀参戦の匂わせだったらアタシが大喜びするけど)、これ多分「盂蘭盆会」のお祭りが中心になっているよね。祇園祭は疫神や怨霊を鎮める御霊会だから、そういった意味では将門公にうってつけだし、他の祭りは霊を「此岸」に迎え、再び「彼岸」へと送るものなんだよね。(まぁそもそもお祭りってそう言う性格のものが多いんだろうけど)

そんな中でかなり異彩を放っていたのが榎本武揚。彼もまた彼岸からやってきた人ではあるけれども、山吹の君や将門公とは決定的に違う。なぜなら、彼は自分が進むべき道を知っているから。彼が向かうのは「北」、そして「未来」。『むすはじ』で指していた「北」は額面通りの方角だろうけれども、こと祭においては「彼岸」を指しているんだと思います。(2018でもどこへ向かったらいいかわからなくなった歴史上の人物を「北」に導く描写があったよね)。彼が乗ってきたのは、電飾ギラギラのド派手な船。「エレクトリカル開陽丸」なんてうまいこと言ってる人を見かけたのですが、どこに向かうべきかわからない暗闇を先導するのに必要なのは「灯り」です。それゆえ男士たちも松明を手にし、「この灯り 道しるべ」と歌っていたわけで。冗談みたいに眩しい船だったけど、「彼岸」へ導く船としての灯りだと思うとなんらおかしいことではないんだよね。

 

こちら側から送り出され、あちら側からも迎えがきた将門公はどうなったのかーー。実はよく見ると、彼がいわゆる怨霊の姿でいたのは、冒頭の船で現れたシーンだけなんだよね。あそこだけ、白髪混じりの怨霊となった将門公だったんだけど、祭りパートで出てきた甲冑姿や、その後の烏帽子姿などなどは、怨霊化する前の“人間・平将門”なんだよね。そしてクライマックス近くでは、怨霊化した6体を自らの手で断ち、その6体が将門公の中に還っていく。そう、もはや怨霊ではなくなったんです。

「我をどう見た」

そう問う将門公に、水心子は答えます。

「水面に映る姿は、怨霊と思わば怨霊、神と思わば神。人と思わば人なり」と。

水面に映る姿とは揺らぎやすく、絶対的なものではないけれども、その中に“人間・平将門”を見たのなら、きっとそれが答えなんだろうね。(だからこそ、水心子くんが「前に進む」と誓ったときに己の姿を映すのは、決して揺らぐことのない刀身だったんだろうな)

 

ラストが『問わず語り』になるのはなんとなく予想していたけど、『東京心覚』のときとはまた違って聞こえました。それぞれの男士たちがこれまで関わってきた多くの命ーー自分の元主だった人もいれば、歴史に残らない人もいてーーそんな全ての命に祈りを捧げているようだったんだよね。あぁ、そうか、この祭りは彼らに対しての鎮魂でもあったんだ。そしてその中にはきっと、山吹の君のような人たちもいるんだろうね。

 

さて、無事に将門公を成仏させたわけですが、そもそもなんで刀ミュ本丸はこんなバカデカいお祭りで彼を彼岸へ送ろうと思ったのかーー。それは、かつて疫病が流行ったときに「平将門の祟り」だといわれ、彼を祀ったことによって疫病が治まったという伝承になぞらえているのでは? とわりと本気で思っています。そう、つまりは「疫病退散!!!!!!」ってわけよ。

 

総括のような勢いで書いていますが、真剣乱舞祭2022はまだ前半戦。これから日本各地でたくさんの祭りが行われます。刀ミュ本丸のみんなが、どうか最後まで無事に駆け抜けられますように! 疫病退散!!!!!